荒木陶窯(あらきとうよう)


「薩摩焼」「苗代川焼」の起源

「薩摩焼」「苗代川焼」の起源は、約400年前の文禄・慶長の役(1592年〜1598年)に始まります。
慶長3(1598)年、島津義弘公に随伴せて渡来した陶工たちは、鹿児島県の串木野(島平)・市来(神之川)・鹿児島市(前之浜)の3箇所に上陸しました。
串木野の島平に上陸した朴平意は苗代川(現:美山)に窯を築き、藩公の庇護奨励のもとに製陶を始めました。
これは千利休の門人であった義弘公の茶道趣味と薩摩藩の産業奨励のためであったと云われています。

1867年(慶応3年)には、島津藩が単独で出品したパリ万博において、薩摩焼はヨーロッパの人々を魅了し、世界に「SATSUMA」の名を轟かせました。

荒木家は串木野の島平に上陸した渡来陶工、朴家の末裔であり幾多の歴史的苦難を乗り越えて、苗代川焼伝統の技と心を今日に伝えております。


「白薩摩」「黒薩摩」


「苗代川焼」は、「白もん」「黒もん」と呼ばれる薩摩焼の生地を主に焼き、美しく豊かな生地と、豪華で精緻な装飾は、永く多くの人々を魅了し続けています。

「白薩摩」

薩摩焼は「白もん」と呼ばれる豪華絢爛な色絵錦手と「黒もん」と呼ばれる大衆向けの雑器に分かれます白薩摩は、藩の御用窯である苗代川窯で多く焼かれていた陶器白い陶土をに成形して透明釉を掛けたもので、表面の細かい貫入が特徴の一つです。

江戸時代には、白薩摩は藩主専用の焼物で、 主に幕府や他の藩への贈答品として生産されていました。

「黒薩摩(苗代川焼)」

「白もん」に対して「黒もん」と呼ばれる黒薩摩ですが、黒もんは鉄分が多い土を高温で焼き締めるため、素朴で頑丈な仕上がりが特徴です。

14代目荒木幹二郎は日本伝統工芸展をはじめ数々の展覧会で入賞入選を重ね、生活雑器としての黒もんを、格調高い芸術品の域に高めた功績が評価を受けています

薩摩焼の分類

苗代川系

創祖は串木野(島平)に上陸した朴平意(ぼくへいい・1559〜1624)
慶長4年(1599)串木野に薩摩焼最初の窯を築陶(串木野窯)、黒薩摩と白薩摩の生地を主に焼いた。

慶長8年(1603)下伊集院村大字苗代川(現在の美山)に移住し築窯
1782年、白薩摩の捻物細工を開始
1844年、錦手(白薩摩上絵付)も開始

 

竪野系

創祖は市来(神之川)に上陸した金海(きんかい・星山仲次)
慶長6年(1601)18代藩主島津義弘公の命により、姶良郡帖佐宇都に築陶した御庭焼窯の宇都窯に始まる。
瀬戸・美濃へ陶法修行の後、茶陶を始める。
白薩摩が主で朝鮮より持ち帰った白陶土を使い「火計り手」など白薩摩のもとになる物が焼かれた。

 

龍門司系

創祖は串木野(島平)に上陸した卞芳仲・何芳珍(べんほうちゅう・かほうちん)
卞芳仲は何芳珍と共に帖佐の八日町に築陶した。しかし、子供がいなかった為、何芳珍の孫である小右衛門を後継者とした。
その後小右衛門は山元碗右衛門と名乗り、元禄元年に龍門司窯を創設、現在の龍門司焼の創祖となった。
平家の末裔、川原重治は山元碗右衛門に師事し陶業に従事した(中興の名工、川原芳工の父)。山元家断絶の後、現在の龍門司焼を継承。

 

平佐系

安永5年(1776)川内平佐の今井儀右衛門が天草石を購入、阿久根の脇本に窯を築き染め付け白磁を焼いたのが始まり。
衰退後、平佐領主本郷家の援助により伊地知団右衛門が天明6年(1786)に平佐皿山に平佐北郷窯を築窯。その後平佐べっ甲釉などの名品を残したが衰退し廃窯。

 

西餅田系

修験者小野元立が寛文3年(1663)山ヶ野金山にいた肥前の陶工、北村伝右衛門を中心に帖佐の西餅田に元立院窯を築いたのが始まり。
蛇蝎釉やどんこ釉と呼ばれる製品を生み出したが、延享3年(1746)に廃窯。